近代演劇を語る上で避けては通れない人物がいます。
その名もヘンリック・イプセンです。
ノルウェーが生み出した近代演劇の巨匠はどのような生涯を辿り、どんな作品を世に出していったのでしょうか。
今回はそんなヘンリック・イプセンについて、ヘンリック・イプセンが辿ってきた生涯と、ヘンリック・イプセンの代表作について紹介していきます。
ヘンリック・イプセンの前半生
まずはヘンリック・イプセンの生涯について見ていきます。
ヘンリック・イプセンは1828年3月28日にノルウェーのシーエンにて生を受けました。
ヘンリック・イプセンは比較的裕福な家に生まれ、家族は地元有力者との血縁関係にもありました。
しかしながらヘンリック・イプセンが7歳になったときに家をたたまなければならないほどに困窮し、シーエンから出ていかざるを得なくなりました。
そしてヘンリック・イプセンもまた1843年に一家を去ることになります。
やがて15歳(1846年)になったヘンリック・イプセンは薬剤師のもとで見習いを務めます。
ちょうど同じ時期にヘンリック・イプセンは執筆活動をはじめ、劇作家への道が開かれることとなりました。
安定していたとは言い難い前半生の中で劇作家としての道が開かれつつあったヘンリック・イプセンでした。
ヘンリック・イプセンの後半生
続いてヘンリック・イプセンの後半生を見ていきましょう。
1846年に執筆活動を開始したヘンリック・イプセンですが、1850年時点で既に舞台監督についており、演劇界でのキャリアが本格化します。
また、ヘンリック・イプセンの処女作である「カティリーナ」が世に出たのも1850年のことでした。
さらに1860年代になるとヘンリック・イプセンの代表作といわれる「ブラン」と「ペール・ギュント」をそれぞれ発表したことで劇作家としての国際的な知名度も向上していきます。
1864年からはイタリア、ドイツを転々とし、1891年にノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)に拠点を構えるまではノルウェーに戻ってくることは滅多にありませんでした。
しかしながら執筆活動は転々とする中でも大半はノルウェーで行われたとされています。
1891年にノルウェーに戻ってくるまでに「人形の家」、「民衆の敵」などといった作品が世に出されています。
それから15年後の1906年5月23日にヘンリック・イプセンの生涯は幕を閉じました。
ヘンリック・イプセンの作風
ヘンリック・イプセンの作風を理解するには当時の時代背景についても触れねばなりません。
ヘンリック・イプセンの生きた19世紀の中においてとりわけ19世紀後半は産業革命によって大きな歴史のうねりが起きていました。
技術革新と共に進んでいく都市化、資本主義経済でしたが、その一方で貧富の格差や社会不安もまた無視できないものとなっていました。
さらに時を同じくしてフランス革命の影響も欧州各地に広がっており、これまでタブーとされていた自由や平等といった思想も浸透していくこととなります。
さて、これまでの演劇はヴィクトリアニズムに基づく、高潔な主人公によるいわば勧善懲悪に終始していました。
ヴィクトリアニズムとは禁欲、節制、貞淑などに厳格に重きを置いた価値観で、あまりの厳格さに「上品ぶった」「偽善的」なニュアンスを持たさせることもありました。
一方のヘンリック・イプセンはというといわゆるヴィクトリアニズムに対して正面から挑戦するような作風が特徴です。
高潔な主人公が悪を征し幸福にするものでなければ絶対的な悪とみなされたヴィクトリアニズムに基づいた劇に対し、ヘンリック・イプセンは当時の置かれた状況や諸問題に焦点を当てることで徹底的にヴィクトリアニズムに基づいた劇を否定しました。
このように、当時の状況や諸問題に焦点を当てたヘンリック・イプセンの作品は現代劇のルーツとも言われています。
日本における新劇運動もまた、ヘンリック・イプセンの作品が上演されたことがきっかけだと言われています。
ヘンリック・イプセンの代表作
ここまでヘンリック・イプセンについて、生涯と作風について解説してきましたが、ここからはいよいよヘンリック・イプセンの代表作について見ていきます。
ここではヘンリック・イプセンの代表作について、時系列を追いながら紹介していきます。
カティリーナ(1850)
「カティリーナ」はヘンリック・イプセンによって1850年に世に出された作品で、処女作でもあります。
作品名「カティリーナ」は古代ローマ帝国に実在したルキウス・セルギウス・カティリナにちなんだ作品となっています。
ルキウス・セルギウス・カティリナは紀元前402年にローマ帝国の執政武官に選出されるも2度にわたる陰謀を企てた末に悲劇的な死を遂げました。
これが後にカティリナ事件と呼ばれることとなります。
ルキウス・セルギウス・カティリナはヘンリック・イプセンより前にベン・ジョンソンが1600年代に詩(カティリーナ)で、ヴォルテールが1700年代に戯曲(救われしローマ、あるいはカティリーナ)でそれぞれ彼にちなんだ作品が発表されました。
さて、ヘンリック・イプセンの「カティリナ」でもルキウス・カティリナが登場し、平和と狂気の間で2人の女性の間で揺れ動くロマンティックな世界が描かれています。
勇士の塚(1850)
「勇士の塚」は先ほど紹介した「カティリーナ」と同じ1850年に世に出た作品で、ヘンリック・イプセンの2番目の作品です。
ただ、2番目の作品ではあるものの実際に最初に演じられたのは後発の「勇士の塚」です。
さて、「勇士の塚」ではノルウェーにキリスト教がまだ伝来してなかった時代のシチリア沖の小島が舞台になります。
小島は以前にあった略奪によりブランカと里親のロデリックの2人しか住んでおらず、そこにノルウェー人の海賊王ガンダルフがやってくるというものです。
「勇士の塚」の作中においてキリスト教的な価値観がよく分かる描写があります。
ガンダルフが島にやってくるとブランカは盗賊の魂にも祈りをささげている旨告げるのですが、ここでいう盗賊とはガンダルフを含むヴァイキングのことを指していました。
キリスト教新約聖書「マタイ5章43-48節」にて、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という記述があります。
ブラン(1865)
「ブラン」はヘンリック・イプセンによって1865年に執筆された作品ですが、実際に表舞台に本作が出たのは1867年のことでした。
「ブラン」の発表によってヘンリック・イプセンの劇作家としての知名度が国際的に向上したといっても過言ではありません。
「ブラン」は5幕にて構成されており、主人公は作品名にもある「ブラン」という人物が務めます。
第1幕では山中にいる主人公「ブラン」が様々な人物と出会っていきます。
危険を全く顧みなずに氷河に挑む百姓の親子、陽気な画家の「エイナル」とその婚約者「アグネス」、そして山中の大きな教会を知っていると主張する鷹狩りの15歳の少女「ゲルド」が第1幕では登場します。
「エイナル」については主人公「ブラン」とは同級生の関係であり、「ブラン」は神はお爺さんであると考える「エイナル」を嘲ってました。
なお、「ブラン」は神は若く勇敢な救世主だと信じており、人々は信仰に対して疎かになっていると感じていました。
とは言え、「ブラン」が考えていた信仰心とはある種正反対な思考に出くわしたことで人生について考えることになります。
第2幕では「ブラン」の故郷が飢饉に見舞われるところから始まります。
故郷ではパンが配られ、「ブラン」は何が必要か聞いて回るのですが、ここでとある夫人から「許し」がほしいと請われます。
夫が子どもが飢えに苦しむ姿を見かねて殺してしまい、その夫もまた自傷行為に及んだというものでした。
誰もフィヨルドの向こうに行こうとしない中、「ブラン」と「アグネス」はフィヨルドの向こうへ漕ぎだすのでした。
第3幕では「ブラン」と「アグネス」に加え、その間に生まれた息子「アルフ」が登場します。
しかしながら「アルフ」は思い病にかかっており、「アルフ」を看病していた医師から息子のためにも「ブラン」は出ていってほしいと言われるところから始まります。
第4幕は「アルフ」の死後から始まります。
「アルフ」の死を受け入れられずにいる「ブラン」と「アルフ」の服で自らを慰める「アグネス」がいました。
そんな中、「ブラン」は教会を造ることを決心します。
教会を造ろうとする過程で「ブラン」の母の生い立ちと「ブラン」が生まれるに至った経緯、「ゲルド」の生い立ちについて明らかになっていきます。
終盤でロマの親子が現れ、凍える子のために服が欲しいと言われると「アグネス」に「試練」を与えるのでした。
そして「アグネス」も生涯の幕を閉じます。
第5幕では「ブラン」の晩年を描きます。
「ブラン」は選択と結果がテーマに入っており、後に発表される「ペール・ギュント」でさらに深掘りされることとなりました。
ペール・ギュント(1867)
「ブラン」の初公演のあった1867年に執筆されたのが「ペール・ギュント」です。
「ブラン」の時と同じく、主人公は作品名になっている名前の人物が務めます。
本作では「ペール・ギュント」という人物の生涯が5幕構成にて描かれる作品となっています。
第1幕で描かれる「ペール」は夢見がちな若者ですが、こともあろうに結婚式からかつての恋人だった「イングリ」を奪取するという衝撃的な行動に出ました。
第2幕は「ペール」が「イングリ」を奪取した後から始まります。
「ペール」はせっかく奪取した「イングリ」に飽きてしまい、今度はトロルの娘とされる女に夢中になりました。
第3幕では「ソルヴェイ」という女性が登場し、その頃にはトロルの娘とされる女から「ペール」は逃亡していました。
故郷から逃亡にも近いような放浪生活を送る「ペール」でしたが、ひそかに帰郷します。
第4幕では「ペール」は恋仲になった「ソルヴェイ」を待たせたまま再び放浪生活をします。
北アフリカで歴史家になろうとしたりするも精神病院で「皇帝」になる「ペール」でした。
第5幕では身一つで帰郷した「ペール」の晩年が描かれます。
「ブラン」と類似した作風ですが、「ブラン」では主人公の意思よりも周りの状況の方が比較的に行動に反映されるのに対し、「ペール・ギュント」では主人公の意思が常に良くも悪くも行動に反映されるところが対照的です。
人形の家(1879)
「人形の家」はヨーロッパにおける当時の家族観、女性の社会的地位の現状に対して疑問を呈した作品として有名です。
本作はクリスマスイブに弁護士「ヘルメル」と妻ノーラとの間に事件が起きるところから始まります。
「ヘルメル」は銀行頭取になることになっており、その際に解雇されることとなった「クロクスタ」から過去の「ノラ」の借金に関する秘密が暴露されてしまいました。
これに激怒した「ヘルメル」は罵倒するのですが、改心した「クロクスタ」から借用証書が送付されると態度が豹変して甘くなります。
この時、「ノラ」は自分のことを人形としてしか見てないことに気が付き、家を出ていくことになります。
当時のヨーロッパにおいて女性は夫の「所有物」とみなされ、夫婦間で問題があっても離婚が許されない状況下で女性が自己の意思で出ていく描写は批判を受けるも女性の地位向上を望む人々からは強い支持があり、当時としては画期的なものでした。
民衆の敵(1882)
時代が時代なだけにタイトルだけ見ると自由と平等の思想が浸透しているように見えますが、本作は決してそういうものではありません。
本作では「トマス・ストックマン」という医師が温泉が汚染されていることを告発しようとしますが、経済的利益を優先する村長をはじめとする村民らによってもみ消されてしまいます。
「トマス・ストックマン」の味方になっていた人たちも裏切っていき、彼の正義感が報われないばかりか「民衆の敵」に仕立て上げられてしまうのでした。
正義を掲げる人が愚かな多数派によって圧殺されるように見える本作ですが、これには2つの見方ができます。
- 短期的な視野で数の暴力で圧殺する多数派
- 多数派を愚者として見下すインテリ思考
特に2つ目については後先も考えずに正論を繰り出して暴走する主人公に対する皮肉と言えます。
正義を掲げた少数派の悲劇として捉えるのではなく、双方からにじみ出る人間の醜さを吟味するのがポイントです。
現代劇への道を初めて切り開いたヘンリック・イプセン
ヘンリック・イプセンは当時としては大変画期的な、時には社会的議論を巻き起こすこともあった作品を世に出していきました。
中でもとりわけ「人形の家」は女性の地位向上に向けて少なからぬ影響を与えており、今の私たちがあるのも「人形の家」のおかげなのかもしれません。
また、ヘンリック・イプセンは従来の高潔な主人公による勧善懲悪を主とした演劇観に正面から挑戦し、現代劇への道も築きました。
演劇の世界観を変えたヘンリック・イプセン、そんな彼の作品をぜひ味わってみませんか。